中之条町のシンボルともいえる・嵩山(たけやま・789m)は、吾妻七社明神の中心的な神である和利大明神そのものであり、祖先の霊魂を祀る山、天狗の住む伝説など、古くから地域の霊山として人々の信仰を集めてきました。永禄六年(1563年)、岩櫃城が真田幸隆に攻められ落城。岩櫃城主吾妻太郎斉藤越前守(憲広)の子・城虎丸(じょうこまる)(18歳)を擁した吾妻衆が、上杉謙信の支援を受けて嵩山城に立てこもりました。しかし永禄八年(1565年)11月、激戦の末に一族は大天狗の岩から飛び込んで自決し、嵩山城は落城しました。
嵩山城落城の約140年後の元禄15年(1702年)、嵩山合戦で悲惨な最期を遂げた犠牲者を供養するために、五反田に住み着いていた江戸の僧・空閑(くうかん)と地域の人々を中心に、坂東三十三番の観音像が建立されました。
GWの風物詩・嵩山祭りの前日に、芝桜・ツツジ・鯉のぼりの美しい『嵩山』に登山し、『和利の里』(五反田)を散策、空閑の墓や忍者の墓などにもご案内します。
■ 霊山『たけやま』登山と『和利の里』散策エコツアー
~ 芝桜・ツツジ登山道・100匹の鯉のぼり ~
【日程】
平成27年 5月4日(月・祝) 9時~14時30分頃
【集合】
道の駅たけやま、たけやま館前 8:50
【コース】
たけやま館 ⇒ 小天狗 ⇒ 胎内くぐり ⇒ 中天狗 ⇒ 御城の平 ⇒ 大天狗 ⇒ 一升水 ⇒ 弥勒穴 ⇒ 道の駅たけやま(昼食) ⇒ 親都神社 ⇒ 天王石 ⇒ 産石 ⇒ 旧五反田小学校 ⇒ 和利堂、空閑の墓 ⇒ 大久保のナツグミ ⇒ 忍者の墓 ⇒ 道の駅たけやま戻り
【対象】 軽登山ができる健康な男女
【募集人数】 20名(先着順)
【参加費】
一般3,000円/会員1,500円(傷害保険料を含む)
※関係機関、連携団体の方は応相談
【服装・持ち物】
長袖、長ズボン、リュックサック、登山靴、飲み水、弁当、雨具、ゴミ袋、身分証明書、タオル、靴ひも予備、行動食、防寒着、防寒帽、筆記用具、自然観察用具など
【主催】 NPO法人 浅間・吾妻エコツーリズム協会
【申込方法】
以下のボタンよりオンライン申し込み画面へ進み、必要事項をご記入し送信してください。【お問合せ/申込先】
〒377-0801 群馬県吾妻郡東吾妻町原町5103 小池宅
NPO法人 浅間・吾妻エコツーリズム協会 赤木道紘まで
TEL/FAX:0279-25-7593 携帯080-5655-3009
E-mail : infoアットマークecotourism.or.jp【申込〆切日】 4月29日(水)
【このイベントのチラシURL】
霊山『たけやま』登山と『和利の里』散策エコツアー ~ 芝桜・ツツジ登山道・100匹の鯉のぼり ~
■ 案内人プロフィール
滝沢 隆雄(たきざわ たかお)
1941年埼玉県入間市生まれ(現中之条町在住)。都内で勤務しつつ、吾妻の里山での自給自足ライフを求めて中之条町五反田に自分で山小屋を建てる。食事処「和利の家」ご主人の唐沢様とのご縁や、嵩山城があった五反田地区に斉藤性が多いこと等が持ち前の探究心に火をつけ、図書館に通いつめる等し、ほぼ独学で地域の歴史を学び理解した。趣味は山野草栽培、野菜づくり、読書など。
■ 嵩山について
嵩山は標高789mの独立した山で、渋川方面から吾妻に入って一番先に見える姿の美しい山です。中之条町のシンボルのひとつとなっていて、東南面は切り立った岩肌、西北面は延々と樹海が広がっており、近くの山々、遠くの白根、四阿山、浅間、遙かに上信越高原国立公園の一帯が一望できます。
春のツツジ、初夏の若葉、秋の紅葉と四季折々の山の表情も豊かで、見る人を楽しませてくれます。また、毎年5月5日には嵩山まつりが開催され、麓の道の駅霊山たけやまも多くの人で賑わいます。
嵩山(たけやま)の歴史 ~霊山と山城で知られる嵩山~
古代から祖先の霊魂を祀る山を「たけやま」と呼び、嵩山は死者の霊が山の上に集まる神聖な「霊山」として、吾妻盆地の各地から信仰を集めていました。ま た、この山には神様がいて、春には里におりて田畑の神となり、実りを与えてくれるとされていました。
縄文式文化時代の遺跡も多く、「嵩山の神和利大明神として子持山の神を妻とし、鳥頭明神を子供として吾妻地方の中心的な神となっていた」と、神々の縁起を集めた『神道集』には記されています。また、嵩山は天狗の住む山とも言われ、現在でも東の峰を大天狗、中の峰を中天狗、西の峰を小天狗と呼んでいます。
永禄八年(1565年)、嵩山合戦で悲惨な最期を遂げた斉藤氏一族を弔うために、元禄15年(1702年)から坂東・西国・秩父の百番観音が建立されました。
このように、嵩山は古くから、山全体が聖山であり、人々の信仰の対象となっています。
■ 嵩山城について
嵩山城は、室町時代の中期に長尾景仲が白井城に拠って北関東一帯を押さえていた頃、この白井をとりまく友城のひとつとして開かれました。その後、岩櫃城主・斉藤氏が近隣を手中にするに及んでこれと手を結び、岩櫃城をとりまく出城として重要視されました。
戦国時代の永禄6年(1563年)には、岩櫃城が武田信玄方の上田城主・真田幸隆(幸村の祖父)に攻められ落城。岩櫃城主吾妻太郎斉藤越前守(憲広)の末子・城虎丸(じょうこまる)(18歳)を擁した吾妻衆が、上杉謙信の支援を受けて嵩山城に立てこもりました。また憲広と共に越後に逃れていた長兄・憲宗もこれに加わり、斉藤家の再起をかけます。
しかし永禄8年(1565年)11月17日、五反田の台において真田軍と斉藤軍が交戦、双方とも相当の戦死者を出すに至りました。夜に入って斉藤軍が嵩山城に籠城すると、幸隆は城を包囲し夜襲をかけ、逃げ場を失った斉藤軍は四周より攻撃を受け壊滅的損害を受けました。斉藤一族の最期は憲宗、城虎丸以下自決し、女子供は大天狗の岩より飛び降りてことごとく自ら命を絶つ凄惨なものであったと伝えられています。以降は廃城となりました。
■ 嵩山(たけやま)三十三番観世音と空閑のこと
最後の嵩山城主・斉藤城虎丸(さいとうじょうこまる)(18 歳)は、永禄8年(1565年)11月17日、武田信玄方の真田幸隆軍に攻められ、死力を尽くしま したが、ついに落城し、斉藤氏一族は婦女子まで自刃、あるいは大天狗の岩から飛び込んで自決したと伝えられています。
嵩山城落城の約140年後の元禄15年(1702年)、嵩山合戦で悲惨な最期を遂げた犠牲者を供養するために、五反田に住み着いていた江戸の僧・空閑(くうかん)と地域の人々を中心に、坂東三十三番の観音像が建立されました。表登山道登山口を第一番目として、山北の池平の第三十三番目に至るまで、山内に石仏が点在しています。
まずは1年がかりで坂東三十三番の観音像を建立、10年後に秩父三十四番、西国三十三番を建て、さらに享保14年(1729年)には経塚を実城の平につくって供養しました。
観音像建立の約150年後の嘉永7年(1854年)、観音群のうち43体が修復され、さらに約150年後の平成18年(2006年)、「平成の大修復」 作業が行われました。嵩山観音群は、平和を願う民衆の心を伝える貴重な文化財です。
■ 親都神社と嵩山祭りついて
道の駅たけやまの道路向かいにある親都神社は元々、霊峰嵩山を御神体としていた神社ですが、現在は須佐之男命ほか17神を祀っていま す。古くは「吾妻七社明神」の「和利の宮」が祭られていましたが、和利宮はその昔、親都神社の場所から伊勢町東端の御手洗山山頂に移され、さらに弘治2年(1556)、中之条町一帯を支配していた塩谷氏が自分を守ってくれる神として御手洗山から現在の横尾の地に遷座したそうです。氏神が無くなってしまった五反田村の人たちは、須佐之男命を迎えて氏神としたと伝えられています。
親都神社付近はその昔「ちかと千軒」といわれ、中世の屋敷あとがあり、その中心と思われる所に残る「天王石」、市が開かれた事を物語る遺物、「宝蔵寺」跡など、大集落があったと考えられています。永禄の頃までは神社は大森でしたが度重なる戦過や大風により社城も荒れ果てましたが、社殿の鬼門にあたる所の御神木・大ケヤキ(樹齢約700年 目通り9.7m 根回り15.1m 樹高約15m)は残りました。ケヤキでは原町の大ケヤキに次ぐ県内第2位の巨樹で、県指定天然記念物となっています。毎年5月5日、春季例祭は道の駅たけやまのお祭りと合わせて、子どもたちの健やかな成長を願って行われます。山は新緑に包まれ、岩肌にはツツジが咲き、子どもからお年寄りまで大勢の人が嵩山に登ります。
親都神社の北側から嵩山の中腹にかけてワイヤーが張られ、約100匹の鯉のぼりが大空を泳ぎます。この勇壮な眺めは、中之条町の風物詩となっています(4月中旬~5月上旬)。