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『柳沢城址』と『観音山』探検登山エコツアー


岩櫃城縄張図
岩櫃城址縄張図(齋藤慎一、山崎一、富澤朗/岩櫃城興亡史 http://www.denno2488.com/ より借用)  

吾妻の歴史舞台の中心地であった岩櫃城。1.4平方kmの城址規模は、中世の城郭では県内最大級ですが、近年の調査では周囲の支城や街道、城下町をも取り込んだ要塞城だったということが解っており、規模は前記の数倍であったと考えられています。

その支城の一つが柳沢城で、「岩鼓の要害」と呼ばれました。伝説では応仁2年(1468)に柳沢城主柳沢直安が夜襲され討たれたことや、永禄6年(1563)に真田軍が岩櫃城を落とした際、岩櫃城主斉藤憲広は柳沢城にいた嫡子斉藤越前太郎らが駆けつけたことで、越後に落ちのびることができた…といわれています。

一城別郭式で独立した山城としてもまずまずの備えを有していますが、岩櫃城の複雑堅固な造りから見て、この城は出丸であると考えられています。古城部分は「箱掘」などの古い造りが見られ、東側の「薬研掘」などは東からの敵の侵入に備えた真田氏によるもの…など、時期や城主による築城技術の違いも見ることができます。

麓にある「不動の滝」脇の不動堂(瀧峩山金剛院)は今から600年以上前に岩櫃城の鬼門(東北)の鎮守として建てられたと伝わっており、以降、江戸時代を通して瀧峩山は修験の山としても繁栄していました。今は観音山という名前になっています。

中世の古城、真田の増築、かつての修験の霊山の3つを鑑賞できるのが、柳沢城址と霊山・観音山探検登山コースです。当地の歴史に精通したガイドがご案内します。


■ 『柳沢城址』と『観音山』探検登山エコツアー


柳沢城址【日程】
平成27年 5月3日(日) 9時~15時頃


【集合】
JR吾妻線群馬原町駅 北側ロータリー 9:00
(車で乗り合わせて移動します。)

【コース】
群馬原町駅 ⇒ 車、あるいは徒歩で移動 ⇒ 柳沢城址探検・観音山登山(適宜昼食) ⇒ 車、あるいは徒歩で移動 ⇒ 群馬原町駅(解散)

柳沢城址【対象】  藪こぎを伴う山城を探検登山できる健康な男女

【募集人数】  20名(先着順)

【参加費】
一般3,000円/会員1,500円(傷害保険料を含む)
※関係機関、連携団体の方は応相談

【服装・持ち物】
柳沢城址長袖、長ズボン、リュックサック、登山靴、飲み水、弁当、雨具、ゴミ袋、身分証明書、タオル、靴ひも予備、行動食、防寒着、防寒帽、筆記用具、自然観察用具など

【主催】  NPO法人 浅間・吾妻エコツーリズム協会

【申込方法】
以下のボタンよりオンライン申し込み画面へ進み、必要事項をご記入し送信してください。

【お問合せ/申込先】
不動の滝〒377-0801 群馬県吾妻郡東吾妻町原町5103 小池宅
NPO法人 浅間・吾妻エコツーリズム協会 赤木道紘まで
TEL/FAX:0279-25-7593  携帯080-5655-3009
E-mail : infoアットマークecotourism.or.jp

【申込〆切日】   4月29日(水)

【このイベントのチラシURL】
『柳沢城址』と『観音山』探検登山エコツアー



■ 案内人プロフィール

富澤朗冨澤 朗(とみざわ あきら)

1959年東吾妻町生まれ。「東吾妻城壘史研究会」主宰、潜龍院跡の保存整備、岩櫃城の紹介などをしている地域おこしグループ『あざみの会』会長(2015年度)。戦国時代の吾妻にいた無二の強兵【富澤豊前守】(吾妻七騎)末裔の一人。学生の頃から吾妻の歴史を歴史書や古文書から、あるいは現地を徹底調査し研究を続けている。藤原吾妻氏、斉藤氏、戦国時代の吾妻の地における武田、上杉両氏の代理戦争、真田氏と斉藤氏の興亡、吾妻の中世城郭等について精通している。



■ 柳沢城の伝説(出典元:岩櫃城興亡史(http://www.denno2488.com/)より)

柳沢夜討

応仁二年(一四六八)十二月晦日のこと、柳沢直安は家の子郎党を集めて大晦日の酒宴を開き、君臣共にそろって泥酔してしまった。ところがその夜半直安は風呂に入ってふと「昔より、このような晩は翌夜討があると聞いているので用心した方がよい。」と思い立ち、早速部下にその刺を伝えた。その直後、時ならぬ鬨の声が聞こえてきた。城内思いもよらないことで、上を慕えと慌てふためくばかり。

そのとき柳沢の家老丸橋将監と嫡子八郎常定は少しも慌てず百騎ばかりの兵を率いて門外に進み出て、「このたびの夜討は何者であるか、名乗れ」と山にこだまする大音声でどなりあげればそのとき早く、寄せ手の騎馬武者二騎躍り出た。

「我らは平沢大善宗時、白岩入道法雲、主君岩櫃殿の命により討っての大将を賜ったのである。早、尋常に勝負いたせ。」とこれまた大音声で名乗り出た。

柳沢も「いかに寄せ手の愚人ども、耳を傾けてようく聞け、綱をしても寝鳥を射ずというのが人の情、闇討ちとは卑怯なり。先主行禅公の御遺言を早忘れたか。汝らの主人行弘暴虐無人の侍、畜生也。」

寄せ手の軍勢は約三百騎、城兵は二百余人、衆寡敵せず、おまけに、酒宴で泥酔した城兵は、瞬く間に討たれていき、寄せ手は大将直安めがけて、押し寄せ切り込んでくる。「いまはこれまで」と忍びの道から裸馬で東の原に脱走した。討ってのものはこれを見て、後から射る矢は雨霰のごとく、ついに永井六郎が射た矢が馬の下腹から胸元に刺さり馬は屏風倒しに倒れてしまった。

今は是非もなくそこで直安は歩行立ちとなって、夜道を叔母にあたる植栗安芸守の館に落ちていった。

ここで哀れだったのが直安の妻である。敵の手に落ちんと熱湯の湯の釜に中に身を投じ、自らの命を絶ったのであった。婦人は、岩櫃城主斉藤行弘の妹であった。

岩鼓の出城

永禄六年(一五六三)十月中旬、真田軍は大竹(類長が原)の本陣を据え岩櫃城を総攻撃した。このとき岩鼓の出城(柳沢城)の守備は嫡子斉藤越前太郎、尻高源二郎、神保大炊介、割田掃部、蟻川入道、佐藤豊後、一場茂右衛門、同太郎左衛門、首藤宮内左衛門、桑原平左衛門、田沢越後、田中三郎四郎等三百余人立て籠もって岩櫃城に入った敵の側腹を突くべく遠目に待機していた。

十月十三日夜、敵の謀略によって岩櫃城内では甥の斉藤弥三郎、海野長門守幸光等が敵に内応し、城に火をかけ、これを合図に真田軍は大手番匠坂から攻撃に転じた。城主憲広はこの有り様を見て、やけ崩れた居館に帰り自刃せんとしたが、嫡子太郎がこの出丸から駆けつけ、我らが大手、搦手を防ぐこと故一刻も早く城を落ちるよう進言し、富沢藤若、秋閒四郎他諸氏が防いだので、憲広は越後に落ちることができた。

柳沢城址柳沢城址

柳沢城址柳沢城址




■ 観音山と瀧峩山金剛院不動堂のこと

現地の案内看板より

【観音山(標高530m)】
古くは松山あるいは岩鼓と呼ばれていたが、延享4年(1747)に百所(百基)の観音石像が祀られてから観音山というようになったという。東山と西山があり、東山に西国33番と坂東33番、西山に秩父34番が安置されており、麓に龍峨不動尊の堂がある。滝もあり、不動の滝(三重の滝)と呼ばれ、その左横に岩櫃山へと通じる道に抜けられる石門がある。


「原町誌」(1983年発行)によると、

同院の伝説には、第九十一代伏見帝のころ、正応年中(1288年~1292年)から永仁年中(1293年~1298年)の頃、岩櫃城主がその祈祷所として地を城の鬼門(東北)巉巌(ざんがん)の下、飛瀑の傍らに相して大聖不動明王を安置して金剛坊法印円覚を別当たらしめた、これが金剛院の創めである。

または、原町金剛院第十五世の法印円聖著「吾妻原町記」並びに同人著「修験岩櫃語」によれば、今より六百余年前、徳治二年(1307年)、岩櫃城主吾妻太郎行盛が、城内安全武運長久祈願のために城の東北の霊地である此処に大聖不動明王を奉祈し金剛坊法印円覚を別当としたのが龍峨山金剛院不動堂の創始であるということになっている。

---とあります。また、「観音山」の名称についてはそれは百番観音を安置してから後の称呼で、約二百年以来のことであろう。その前は金剛院不動堂の文書には冠した通り、「瀧峨山」と書き通されてきている(「峩」は「峨」の異体字)。さらに、鹿沢記にも「城中町屋の北に岩鼓の要害あり」との記述があるので、「岩鼓」と呼んだこともあろう、としています。

また、登山を始めて間もなくある金掘穴からは、宝暦4年(1754)とその数年後に掘られたものであるという見聞記が残っています。

観音山は西側が修験の聖地であり、岩櫃城の鬼門であり、東側は山城であって敵の侵入を防いでいました。吾妻郷土の修験と山城の関係の深いことに改めて気づかされます。

観音山登山道観音山登山道

観音山登山道不動堂

 


■ 岩櫃城について

岩櫃城由来記(東吾妻町観光協会の看板より)

吾妻八景を代表する岩櫃山(標高八〇二メートル)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。城郭の規模は一.四キロ平方メートルと上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の九能城と並び武田領内の三名城と称されました。その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄六年(一五六三)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は斎藤基国(または憲弘)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。

天正二年(一五七四)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌綱兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。

その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。天正十八年(一五九〇)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(慶長二十年〔一六一五〕)により、四百年余の長い歴史を残し、その姿を消しました。

岩櫃城址岩櫃城址

岩櫃城址岩櫃城址









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