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岩櫃城址 北側遺構 探索コース(半日コース)

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岩櫃城址巨岩が乱立する急崖地形に堀や曲輪を縦横に張り巡らした造り。天険の地形を生かしつつ築かれた膨大な土木工事。どこにでも城兵が潜むことができる複雑な造り…。『武田領内の三名城』といわれた岩櫃城の魅力を満喫できるのが北側遺構コースです。

当地の歴史に精通したガイドがご案内します。


岩櫃城址 北側遺構 探索コース(半日コース)


二重掘【日程】
 平成27年10月31日(土)13:00~16:00
 平成27年11月1日(日)09:00~12:00


【集合】
コニファーいわびつ中庭
(各スタート時刻の15分前をめどにお集まりください)

【コース(予定)】
コニファーいわびつ ⇒ キャンプ場 ⇒ 志摩小屋 ⇒ 西曲輪(詰の丸) ⇒ 北の枡形 ⇒ 岩櫃城本丸跡 ⇒ 殿屋敷 ⇒ 中城跡 ⇒ 平沢登山口 ⇒ コニファーいわびつ
岩櫃城址
【対象】  軽登山ができる方。岩櫃城や歴史に詳しい必要はありません。

【募集人数】  20名(先着順)

【参加費】
お一人様2,000円(傷害保険料を含む)

【服装・持ち物】
岩櫃山登山道長袖、長ズボン、リュックサック、登山靴、飲み水、弁当、雨具、ゴミ袋、身分証明書、タオル、靴ひも予備、行動食、防寒着、防寒帽、地図、筆記用具、自然観察用具など

【主催】  NPO法人 浅間・吾妻エコツーリズム協会

【協力】  あざみの会、東吾妻町観光協会

【申込方法】
以下のボタンよりオンライン申し込み画面へ進み、必要事項をご記入し送信してください。

※今回は特別に、FAX送信用申込書 をご用意いたしました。

【お問合せ/申込先】
岩櫃山登山道〒377-0801 群馬県吾妻郡東吾妻町原町1110番地6
NPO法人 浅間・吾妻エコツーリズム協会 赤木道紘まで
TEL/FAX:0279-25-7593  携帯080-5655-3009
E-mail : infoアットマークecotourism.or.jp

【申込〆切日】   10月28日(水)

【このイベントのチラシURL】
【岩櫃城忍びの乱 特別企画】岩櫃城址 北側遺構 探索コース(半日コース)







コニファーいわびつ

リゾートホテル「コニファーいわびつ」の中庭からスタートします。

二重竪堀

城内あちこちに「二重竪堀」が施されています。その理由を考えながら歩くのもまた良し。

志摩小屋虎口

見事な虎口「志摩小屋虎口」です。祢津志摩守元直の屋敷がこの辺にあったとされています。
二重竪堀に囲まれた志摩小屋と曲輪群は、岩櫃城の北側を本格的に防御する最前線であったと考えられます。

岩櫃城水の手

この、沢通りの沢こそが岩櫃城の「水の手」で、人的に石が組まれていることがわかります。貞和5年(1349年)、岩櫃城吾妻太郎行盛は水の手を断たれ、さしもの岩櫃城も飲み水に窮し落城した、という伝説がありますが…

西曲輪(詰の丸)

巨岩が乱立する急崖地形に、堀や曲輪を縦横に張り巡らした岩櫃城。要害、ここにありといった具合です。どこにでも城兵が潜んでいるような気がします。ここいらは詰の丸(西曲輪)と呼ばれています。

北の枡形

「北の枡形」。四角い形状がよく残っています。 こういうところに行かざるを得なくさせて一網打尽にするのです。

岩櫃城址本丸からの眺め

謎の多い岩櫃城を自分が解明するつもりで探索するのは楽しいことです。この本丸跡では真田幸村が幼少時代を過ごしたかも。真田昌幸(父)、幸隆(祖父)はどんな思いで吾妻川流域を眺めていたのでしょうか。

岩櫃城竪堀

本丸から放射状に続く竪堀の大きさと長さも見所の一つ。本丸と二の曲輪を隔てる堀はそのまま大きな竪堀(南の竪堀)となり切沢方面へ続きます。鉤十字型の仕掛けが見られます。

殿屋敷、平沢集落

真田昌幸に逆心したとされ、誅伐されてしまった岩櫃城代・海野長門守幸光の屋敷があったという「殿屋敷」。最後に歩く平沢集落を歩けば、城下町を一体化させた造りだったことがわかります。







■ 岩櫃城について

岩櫃城由来記(東吾妻町観光協会の看板より)

吾妻八景を代表する岩櫃山(標高八〇二メートル)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。城郭の規模は一.四キロ平方メートルと上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の九能城と並び武田領内の三名城と称されました。その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄六年(一五六三)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は斎藤基国(または憲弘)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。

天正二年(一五七四)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌綱兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。

その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。天正十八年(一五九〇)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(慶長二十年〔一六一五〕)により、四百年余の長い歴史を残し、その姿を消しました。

岩櫃城址本丸跡











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