柳沢城址 探索コース(半日コース)
岩櫃城の支城・柳沢城は、「岩鼓の要害」と呼ばれました。伝説では応仁2年(1468)に柳沢城主柳沢直安が夜襲され討たれたことや、永禄6年(1563)に真田軍が岩櫃城を落とした際、岩櫃城主斉藤憲広は柳沢城にいた嫡子斉藤越前太郎らが駆けつけたことで、越後に落ちのびることができた…といわれています。
一城別郭式で独立した山城としてもまずまずの備えを有していますが、岩櫃城の複雑堅固な造りから見て、この城は出丸であると考えられています。古城部分は「箱掘」などの古い造りが見られ、東側の「薬研掘」などは東からの敵の侵入に備えた真田氏によるもの…など、時期や城主による築城技術の違いも見ることができます。
麓にある「不動の滝」隣の不動堂(瀧峩山金剛院)は今から600年以上前に岩櫃城の鬼門(東北)の鎮守として建てられたと伝わっており、以降、江戸時代を通して瀧峩山は修験の山としても繁栄していました。今は観音山という名前になっています。中世の古城、真田の増築、かつての修験の霊山の3つを鑑賞できるのが、柳沢城址と霊山・観音山探索コースです。当地の歴史に精通したガイドがご案内します。
柳沢城址 探索コース(半日コース)
【日程】
平成27年10月31日(土)09:00~12:00
平成27年11月1日(日)13:00~16:00
【集合】
コニファーいわびつ中庭
(各スタート時刻の15分前をめどにお集まりください)
【コース(予定)】
コニファーいわびつ ⇒ 第三石門 ⇒ 柳沢城址 ⇒ 斥候曲輪(物見・観音山頂) ⇒ 見晴台 ⇒ 象ケ鼻 ⇒ 金堀穴 ⇒ 瀧峩山金剛院不動堂 ⇒ 不動の滝 ⇒ 第四石門 ⇒ コニファーいわびつ
【対象】 軽登山ができる方。岩櫃城や歴史に詳しい必要はありません。
【募集人数】 20名(先着順)
【参加費】
お一人様2,000円(傷害保険料を含む)
【服装・持ち物】
長袖、長ズボン、リュックサック、登山靴、飲み水、弁当、雨具、ゴミ袋、身分証明書、タオル、靴ひも予備、行動食、防寒着、防寒帽、地図、筆記用具、自然観察用具など
【主催】 NPO法人 浅間・吾妻エコツーリズム協会
【協力】 あざみの会、東吾妻町観光協会【申込方法】
以下のボタンよりオンライン申し込み画面へ進み、必要事項をご記入し送信してください。※今回は特別に、FAX送信用申込書 をご用意いたしました。
【お問合せ/申込先】
〒377-0801 群馬県吾妻郡東吾妻町原町5103
NPO法人 浅間・吾妻エコツーリズム協会 赤木道紘まで
TEL/FAX:0279-25-7593 携帯080-5655-3009
E-mail : infoアットマークecotourism.or.jp【申込〆切日】 10月28日(水)
【このイベントのチラシURL】
【岩櫃城忍びの乱 特別企画】柳沢城址 探索コース(半日コース)
柳沢城址一周コースを歩くためには、不動沢を渡ります。長靴、あるいはそれ相当の防水靴が必要です。
第三石門と呼ばれる巨石を右に進みます。
真田氏が統治していた城の堀はほとんど、底が尖った「薬研堀」ですが、ここには底が凹状になった「箱掘」が見事に残っています。古城時代の名残です。
広々とした二の曲輪。大きな堀に囲まれた、一城別郭式の城です。
一の曲輪の先に斥候曲輪があり、その間の深く大きな薬研堀も見所。
物見=観音山山頂からは東吾妻町原町、中之条盆地、子持村などの景色が見えます。修験道の権現様を勧請した祠等があります。
エイリアン?のような形の「象ケ鼻」、金が採れた?とされる金堀穴など、不思議なものが次々に見られます。
江戸時代に繁栄した吾妻の修験寺三院の一つである瀧峩山金剛院不動堂。600年以上昔に岩櫃城の鬼門(東北)の鎮守として建てられたと伝わっており、現在も地域の厚い信仰を受けています。刀がたくさん奉納されています。
「不動の滝」は、大寒の頃には見事な氷瀑になります。滝に打たれるには最適の滝です。
第四石門は、天然の洞窟です。短いながらもちょっとしたスリルが楽しめます。極めつけはこのハート型出口。屋久島に行かなくても、東吾妻町観音山で、ハート型の空が拝めてしまうんです!
■ 岩櫃城について
岩櫃城由来記(東吾妻町観光協会の看板より)
吾妻八景を代表する岩櫃山(標高八〇二メートル)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。城郭の規模は一.四キロ平方メートルと上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の九能城と並び武田領内の三名城と称されました。その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄六年(一五六三)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は斎藤基国(または憲弘)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。
天正二年(一五七四)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌綱兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。
その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。天正十八年(一五九〇)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(慶長二十年〔一六一五〕)により、四百年余の長い歴史を残し、その姿を消しました。