かつて700人余りの社員が勤務し、家族を含めると2,100人以上の人々が暮らしていた、国内第二位の大硫黄鉱山・小串鉱山。しかし、よく使われる「天空都市」「空中都市」の表現は、適切かどうかわかりません。標高 1,823 m の毛無峠の上を硫黄搬出のための索道があったものの、人々が住んでいたのは標高 1,550 〜 1,650 m のあたりでした。坑道や関連施設はもっと高いところにもありましたが…

戦前、草軽電鉄の草津駅長が鉱山事務所へ移ったら給料は2倍になった程、景気が良かったそうです。地域への貢献は税収のみならず、草軽電気鉄道の敷設、金融など波及効果はとても大きいものでした。
朝鮮戦争時(1950年)には1トンあたり8千円から7万円に跳ね上がり、黄色いダイヤと呼ばれましたが、昭和 30 年代に入ると資源の枯渇に加え、石油の脱硫装置からの硫黄生産が可能となったことで生産方法は一変しました。エネルギー転換に加え大気汚染の規制が強化されたことから、石油精製の過程で発生する硫黄の生産も急増し、硫黄の生産者価格の下落が続いた結果、昭和 40 年代半ばには国内の硫黄鉱山は全て閉山に追い込まれたそうです。小串鉱山も 1971(昭和 46 )年に閉山となりました。現在、国内に流通している硫黄は、全量が脱硫装置起源のものです。