上田城址公園(上田市)

昔の旧道から上田城址に近づいていきます。上田城には地層の露頭があり、近づいてみると浅間山の平原火砕流の質とよく似ていました。平原火砕流の露頭は千曲川沿いに小諸市・東御市付近でよく見ますが、上田市まで達しているのでしょうか?「上田地域千曲川自然電子図鑑」では「上田泥流」としていますが、記載内容を拝見するに2万5000年前の塚原土石なだれと1万3000年前の平原火砕流をごっちゃにしているようです。

上田地域千曲川自然電子図鑑〜上田城の上田泥流〜
http://edu.umic.jp/zukan/work/chikeichishitsu/chikeichishitsu-010.htm

また、この石垣は残念ながら後世になって修繕されていますね…

天正十一年(1583年)、真田昌幸により築城された上田城も、関ヶ原の合戦後は徳川軍に徹底的に破却され堀も多くは埋められました。その後藩主となった真田信之も信濃国松代へ転封され、その後は仙石氏が入城し、破却された上田城を現在のような姿に再建しました。なので今現在の上田城では、真田氏を感じる…ようなものはほとんど残っていません。

城内の水堀へは、今現在は地下水を汲み上げて堀へ供給していますが、上田城は流れが緩やかな千曲川の第二段丘上に位置しており、千曲川から取水することができなかったために、かつては4km東を流れる神川から取り入れていました。

城内にある真田神社は、仙石氏の後に藩主となった松平氏の氏神神社=松平(しょうへい)神社でしたが、近年、真田氏ブームにあやかり真田神社に改名しました。その裏にある真田井戸伝説は、後になって小説に出てきた内容なので、井戸から太郎山への抜け道などある訳もありません。

城内で唯一、真田氏の頃からのものと見られるものは本丸土塁の隅欠(すみおとし)です。艮(北東)の方角は鬼が出入りする方角として忌み嫌われ、建物等の東北の角をなくして隅欠としたり、城下町の鬼門に自社を置いたりしました。上田城本丸の土塁も東北の角を切り込み、やぐら2棟をその両脇に配置していたそうです。また、東北方向といえば四阿山があり、上田城と四阿山の間には複数の寺社・寺院が配置されています。

大手門の石垣には「真田石」と呼ばれる巨石がありますが、これも残念ながら破城された後に仙石氏が改めて造ったものでした。

現在ある、陸上競技場や児童遊園地は、江戸時代には大きな堀で、百間堀と呼ばれていました。東側から西側の堀へ水を通すために木で作った樋(導水管)を地中に埋めてありましたが、1702年に木製から石製へ変えた時のものが今も見られます。その上には、信綱寺にある「墓前の桜」と同じ、赤い花が咲く桜があります。

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