今日のメインイベント、砥石城訪問です。「なめんなよ!」の石版に少々驚きつつ登ると、後になってつくられた櫓門があります。その後は、しばらくの間、郭も堀もないまま歩くので城址の探索というよりも普通の登山のような感じです。米山城山頂付近には石垣を確認しました。
米山城本丸より。ここからは、上田城方面がよく見えます。
本丸跡には「村上義清公之碑」があります。砥石城は元々、坂城町の村上氏の居城で、武田信玄は生涯の戦いの中で2度しかない敗戦は、二つとも村上氏との戦いでした。その一つが天文19年(1550年)の砥石崩れです。この戦いで武田方は1200名の死傷者を出しましたが、村上方の死者は193名程だったそうです。そしてその2年後に幸隆は独力で調略でこの城を落としてしまったのですから、武田信玄にしたら願ってもいない人材だったのでしょうね。
上田市付近にはヤダケは自生していませんが、砥石城の周りにはありますので、恐らく戦争のために移植したのでしょう。
米山城から10分ほど下り、砥石城の分岐点まで戻り、砥石城を目指します。一般的には砥石城で通用していますが、上田市では「砥石・米山城」とされています。ここは、米山城・砥石城・本城・枡形城の四要害から構成されています。砥石城からも米山城と同じく上田城方面がよく見えます。しかし実際には、四方の木を切り倒していたでしょうから、昔はもっと見えていたのでしょう。
ここまでの案内約束でしたが、どうも山城らしい造りが見当たらなく、私的には納得できません。さらに奥に進ませていただきました。
すると、ありました、ありました!やっと山城らしいものが!
しっかりとした堀切、郭群、石垣…。なるほど、本城と枡形城付近には、山城の遺構がかなり残っています。すると、砥石城や米山城はほとんど物見的に使っていた、ということになるのかもしれません。また、学研の「真田三代」の縄張図によると、飯縄城・伊勢崎城・内小屋城などの砦群の総称が砥石城であった、とされていました。しかし広い城域です。これはきわめて堅固な要害だったはずです。