手子丸城(大戸城)跡(東吾妻町)

東吾妻町『手子丸城跡』を「東吾妻城壘史研究会」主宰の冨澤朗さんにご案内していただきました。

通常は東京電力の「榛名線34号」という送電鉄塔の工事用階段を登って行きますが、その道はとても急なので、もっと平坦に移動できる手子丸集落の方から城址を目指しました。ただし結構遠いです。

信州街道の要点をおさえる重要な関所であった大戸は、吾妻岩櫃としても、関東方からの侵入を防ぐために非常に重要な場所でした。大戸にあった城は手子丸城といいます。

魔の年であった天正10年(1582)、武田勝頼、織田信長共に味方の裏切りで自刃し、これにより空白地帯となった旧武田領を巡って、周辺の大大名である徳川家康・北条氏直・上杉景勝が争った天正壬午の乱が起こりました。北条氏直は一挙に上野を併呑しようと沼田・大戸の両方面から真田領に襲いかかりました。手子丸城は落ち、大戸(浦野)兄弟は戦死します。数年の後、真田信之は手勢800騎を率い、北条方の富永主膳軍5000が防衛する手子丸城を僅か一日で奪還しました。この時、信之は17歳(数え年)、しかも初陣です。手練の家臣・吾妻真田忍者たちの功績はもちろんですが、信之の強さもまた、ただ事ではありませんでした。

…と伝わりますが、真実は如何に?