道陸神峠要害と道陸神峠越えむかし道(東吾妻町)

ここが道陸神峠要害、戦国時代の砦の跡地です。加沢記によると、永禄6年(1563年)に、武田信玄の命を受け、真田幸隆が吾妻の地侍と共に四つのルートから岩櫃城を攻めています。その内の一つのルートにこの旧道を使ったとありますが、他の古文書では結局この峠を越えられなく、別ルートを通ったというものもあるそうです。

その後、江戸時代の1700年代後半には野口円心という僧侶が全国を遍歴し、托鉢で浄財を募り、道陸神峠−久森峠−釣鐘−鬼岩の開削工事に喜捨したそうです。

弘化3年(1846年)、元治元年(1864年)には民衆による大開削が行われ、この両年の開削助力村を記念に銘刻したのが樽沢にあった磨崖碑ですが、鉄道工事の際に破壊されてしまったそうです。先ほど観察した磨崖碑も、樽沢の磨崖碑と関連は予想されますが、建碑年度は不明です。(久森峠にも石碑があり、助力村60余名との記載あり。)

明治28年(1895年)群馬県会議員・野口茂四郎が政治生命をかけ、自己の全財産をなげうって開削資金に充て、野口新道を開通させました。本人は破産しましたが、これによって吾妻渓谷が天下の名勝として世に出ることになります。