潜龍院跡(東吾妻町)

天正 10(1582)年3月、甲斐の武田勝頼は織田・徳川の連合軍に攻められていました。軍議の席上、真田昌幸は岩櫃城に勝頼を迎え入れ、武田の再挙を図ることを提案して許されました。昌幸は急ぎ帰国し、岩櫃山南面のこの地に勝頼を迎えるための館城(古谷御殿・現在は石垣が残るのみ)を3日間で造ったと言われています。

しかし、勝頼は吾妻の地に来ることかなわず天目山で自刃してしまいました。このときに勝頼が吾妻に赴いていたならば、この地は戦乱の舞台として時代の中心的立場に置かれていたことも十分に推測されます。

急造された御殿は昌幸の一族である根津潜竜斎という山伏が拝領して修験寺院とし、巌下山潜竜院と称して明治にいたり、明治 17 年にその護摩堂が原町顕徳寺の本堂となっています。