羽根尾城址、海野長門守の墓散策

長野原町指定文化財 羽根尾城跡(羽尾城) 昭和49年9月21日指定

 戦国時代に信濃源氏、滋野氏の末裔羽尾幸全入道は羽尾城を根拠として勢力を振るった。幸全の舎弟海野幸光(長門守)輝幸(能登守)兄弟、ともに武勇を謳われた豪の者で、永禄九年(1566)真田幸隆により幸光は岩櫃城代、輝幸は沼田城代にそれぞれ任ぜられたが、兄弟を妬む者の陰謀により真田昌幸の誤解を受け、幸光は岩櫃城で、輝幸は迦葉山の女坂で自刃して果てた。時に天正九年(1581)11月29日、幸光75歳、輝幸72歳であった。

 羽根尾城は梯郭式の城で僅かな平坦地が本丸で虎口は東南部にあり東側に腰曲輪がつく。本丸の南に二の丸、更に南に三の丸が続く。

 平成7年3月吉日 長野原町教育委員会

長野原町指定史跡 海野長門守の墓 昭和49年9月21日指定

 墓碑は宝筐印塔で、総高二メートル、墓碑の三方に碑文が刻まれている。

右側、上野州我妻郡羽尾城主海野長門守同舎弟能登守従往者雖有遺跡没為水災故改之
正面、雲林院殿前長州洞雲全龍居士
左側、干時元文三年戌午七月朔日宗泉五世心叟再興之

 海野長門守は、中世の頃、羽根尾を拠点に領地を所有していたが、真田幸隆の岩櫃城攻略のとき、城主斉藤氏討伐に忠誠を尽くした功績で、永禄九年(1566)吾妻郡代となり、16年間激動の時代に城を守った。天正9年(1581)、真田昌幸に逆心したということで、居館の岩櫃に攻め込まれ75才を一期に11月21日に自殺した。長門守の弟、能登守は沼田の女坂で壮烈な討死を遂げた。その墓は沼田市の史跡となっている。羽根尾は旧領だったため遺臣等がこの地に葬ったという。墓の西に並んで二基の石塔がある。一基は海野長門守家来の霊として家臣を祀ってある。一基は松尾沢戦死者の霊を祀り、更に一基は海野長門守家来の霊として家臣を祀ってある。

 昭和63年 長野原町教育委員会