手子丸城(大戸城)跡(東吾妻町)

大戸城主の大戸氏の本名は浦野氏で、祖先は鎌倉時代に幕府に仕えた海野幸氏だそうで、信州滋野氏一族、つまり真田氏と同族になります。大戸城主大戸真楽斎は岩櫃城主斉藤憲広の妹を嫁にもらっていましたが、真田氏岩櫃城攻略の際には、大戸真楽斎は真田方についていました。

手子丸城は吾妻きっての要害だったそうで、永正 10 年(1513)4月、長野伊予守兼業(憲業とも、業政の父)は榛名満行権現=現榛名神社に「大戸の要害を私の思い通り落とすことができたなら、百疋の土地を末代まで寄進致すことでありましょう。」という願文を掲げています。

浦野右衛門尉重俊という大戸城主は年代的には真楽斎の父かも知れません。すると浦野村信は真楽斎の兄弟なのかもしれません。村信には子がいなく、岩櫃城代・海野長門守の次男(幸照)を養子に迎え、長野原林地区の大乗院を継がせたと。そして大乗院は沼田城主真田伊賀守(真田幸村の兄信之の孫)の祈祷所となった…

というのが、私の理解です。