(尻高集落内案内看板より)尻高城跡
尻高城(応永8年(1401)〜天正8年(1580)) 応永8年3月白井城主長尾重国の家臣により築城が始まる。
同十年完成。重国の三男重儀城主となり尻高氏を名乗り左馬頭と号す。
小屋の村落の東北方の「ゆうげい」と呼ぶ岩山がそれで最高所が本丸、その東4mほど低く一つ掘切りを距てて二の丸がつく。
本丸は径40m、二の丸は東西100m幅数m東端には5m低く腰郭がつき断崖に終わる。
西は数段の小郭から成り西南に離れて5mほど下に別の一郭がある。離れて北側に馬屋と称する所あり。
尻高氏は1563年真田幸隆の岩櫃城責め、1565年嵩山城攻めの際には上杉方として吾妻斎藤氏に味方していました。同年に武田信玄が信州佐久の名刹・新海大明神に納めた攻略祈願の願文には箕輪、惣社、白井、嶽山、尻高の5城が名を連ねています。たがて1571年には幸隆に攻められ、武田方に一時的に降参するも上杉方に反転、白井城の長尾憲景氏に従うが1574年には武田軍の海野三河守幸貞(海野能戸守輝幸の子)、真田軍に攻略(武田軍に割田下総、唐沢玄番、富沢備前の名あり)される。そして1580年には北条方として(別の城で)真田軍と戦うが力及ばず、180年間続いた尻高氏は滅亡しました。
尻高氏は、一貫して武田氏・真田氏に対峙していたという、見上げた一族でした。戦国時代の当時、最も戦に強く人望があるとされた武田信玄に徹底抗戦したその背景には、何があったのでしょうか。