戦国真田の岩櫃城跡探検隊 第九弾 潜龍院で岩櫃太鼓

潜龍院到着手前で弁当の配布、そして岩櫃太鼓でお出向かえ。石垣がある側の道路向かい側はとても広く、そして高木により日陰が十分にあります。ここなら、500人、いや1000人位集まるイベントやったってできそうな気がします。院の真南にある大岩は「来福寺左京物見の岩」です。

岩櫃山直下のこのロケーションで、木陰でお弁当を食べる…なんて、最高だと思いませんか?

「来福寺左京物見の岩」からは景色は見えませんでしたので、その一段右下にあるもう一つ岩に登ってみました。似たようなものでしたが、南側の樹木を伐採すれば、大戸(手子丸)方面は丸見えになるそうです。この岩の下は急崖が曲輪状に続いており、やはり攻め上がるのは厳しいですね。

潜龍院跡地は、この岩櫃山・幕岩の絶壁直下でこんなに広い場所が自然地形として成立するのはごく稀なことのように感じるのでやはり人為的に造ったのでしょう。物見の岩下の曲輪状地形も…それでも、武田勝頼公を迎えるために3日で造った、というのは信じがたい話なので、すでに潜龍院跡に築城するための土木工事は済んでいたのではないでしょうか。上モノを3日で建築した、ということなのか、もしくはできていたものを勝頼公用にリニューアルしたとか…策略家の真田家のこと、そのくらいはするでしょう。さらに自分の手の内にある草津街道沿いに勝頼公を居住させることで、真田昌幸は勝頼公をいいように利用・コントロールできるようにと考えていたのでしょう。

また、来福寺左京という人物は、武田信玄に仕えていた修験者で諜報・工作活動に従事していましたが、後に武田家の謀略担当の真田幸隆に出向で仕える事になり、武田家が滅亡すると正式に真田家に迎え入れられ、真田忍者の総元締めとなった出浦対馬守盛清と共に忍者の組織化と育成に力を注いだ人物だそうです。天正13年(1585)第一次上田合戦(神川の合戦)では偽情報を流して徳川軍を誘いだす等、徳川軍撃退に貢献しました。

また、根津潜龍斉昌月も武田家の家臣でしたが、天正十年(1582)武田勝頼公が自刃したあと、真田家に仕えないかと誘われたが、武士二君に仕えずとして修験者になったのだそうです。真田昌幸とは同族のよしみで御殿を拝領し潜龍院を興しました。

来福寺左京と根津潜龍斉昌月はどんな関係だったのでしょうか。共に戦う、ようなことはあったのでしょうか…