不可解な鎌原城(嬬恋村)

鎌原観音堂の向かいにある墓地の横の道を進んでいくと、やがて左に「鎌原城址」の看板があります。

三の丸よりも手前から見ますと、道路の前方、延長線上に三の丸、二の丸、そして本丸と続くことになっています。本丸の奥は吾妻川に向かって 80 m の絶壁です。吾妻川からは攻められないとしても、南側から本丸に向かうと、近づけば近づくほど低く下がってゆく…こんな山城があるなんて?

三の丸から二の丸への堀切跡は、よく残っています。設置看板によると、鎌原城は応永四年(1397)の築城とあります。

鎌倉時代の『吾妻鑑』の仁治二年(1241)の記事によれば、海野幸氏と武田光蓮とが上野国三原庄と信濃国長倉保との境界について争論し、幸氏が勝訴したことが記されているそうです。それが本当なら、万全な北側(吾妻川側)だけでなく、南側(浅間山側、鎌原宿側)の守備もとても重要だったはずです。

縄張図は山崎一様、山口武夫様の「吾妻郡城塁史」の鎌原城縄張図です。三の丸手前の堀切は、現在は確認することができません。

しかし、同じく城下町よりも城が低い位置にあるのは「小諸城」で、全国で唯一の穴城といわれているそうですが、浅間山の平原火砕流(軽石流・田切地形)の断崖を天然の要害として使うなど、小諸城と鎌原城は似ている部分があるのかもしれません。