矢倉鳥頭神社の神大杉

神代杉の由来


そもそも神代杉(一名親子杉とも言う)は、その昔 日本武尊御東征のみぎりお手植されたと言い伝えられ、以来幾千歳うっ蒼たる神域を近隣に誇りしが、寛保2年(1742年)草津への旅人一夜をこの大杉の虚にて暖を焚き、その失火により神代杉は半枯の状態になりしとか。その後天明3年(1783年)浅間山噴火による熱泥流は、再びこの神代杉を厄火に包みたり。
ときに龍徳寺住職円心和尚は、その焼失の危機を憂慮し神代杉を後世に残さんと余燼のくすぶる中 己れが危険を侵し十米の高所より切倒してその祈念を果たし、今の世に往時の面影を残存したると言う。

この神代杉は現在周囲九.七五米余あるが、当村の氏子たち代々に亘り修復を重ねて、今にその姿を伝えるものなり。

また、虚内にある杉は約200年前何度か植栽に挑みたるが いずれも枯死したため、氏子たち笹原台地の黒土を馬にて運び混土し、杉苗も長尺ものを切株より大空に突出して植えるなど、幾多先人の辛苦により漸くその目的を達し 活着したものと言われしが、それより一名親子杉とも呼ばれ この神代杉の名声を天下に広め、今尚、誇りを保ち尊ばれるものである。

1783年浅間山大噴火の鎌原土石なだれで、長野原町大桑小宿にあった常林寺の梵鐘が、約20km下流の東吾妻町の吾妻川の河原(もしくは15㎞下流の長野原町河原畑付近の川床とも)から約120年後に発見されたという話がありますが、東吾妻町原町付近では被害が無かったと義母から聞いていました。しかし吾妻川から同じ位の距離と高さにある矢倉では被害はあったのですね。また、円心和尚といえば私費を投じて吾妻渓谷を通る国道の原型をつくった人物です。その円心和尚が燃えている神代杉を高さ10mの位置で切断し、今の古い幹部分を残したんですか。いやいや、みんな繋がっていますね。