神川合戦の地(海野幸義戦死の地)(上田市)

次に訪問したのは上田市蒼久保にある、「神川合戦の地」です。真田氏の第一次上田合戦も神川合戦と呼ばれるのでややこしいですが、こちらは一般的には「海野平の戦い」と呼ばれている戦いで、真田昌幸の上田城の頃ではなくもっと前、真田幸隆が 28 歳の頃の天文 10 年(1541年)、甲斐国を統一した甲斐守護武田信虎(信玄の父)が、村上義清や諏訪頼重などと連合軍となり小県郡へ侵攻し、小県を領する海野棟綱ら滋野一族(海野氏、禰津氏、望月氏、真田氏など)を駆逐した一連の戦いです。そのうち、上田市蒼久保のこの地での戦いを「神川合戦」と呼ぶそうです。この戦いで海野棟綱嫡男の幸義は戦死します。ただし、真田幸隆は海野棟綱の子、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子であるとして、海野家の跡継ぎの立場となります。

海野棟綱と真田幸隆は、鳥居峠を越えて、関東管領・ 上杉憲政に仕える同族の羽尾城主・羽尾幸全入道を頼って落ち延びたそうです。幸全の庇護を受けた後、長野業政の箕輪城に預けられましたが、海野平の奪還をめぐって関東管領・上杉氏を頼ろうとする海野棟綱と、甲斐の武田晴信(信玄)を頼ろうとする真田幸隆の意見が対立し、幸隆は箕輪城を出て、武田晴信に仕えました。幸隆はその後、武田軍の西上州侵攻の先鋒を命ぜられ、大恩ある羽尾幸全、長野業政らと闘うことになります…