真田氏三代、いわゆる幸隆−昌幸−信之・信繁(幸村)時代は良政を行っていて、領民の忠義心は厚かった、と聞きますが、沼田藩五代藩主真田信利の悪政はひどかったそうです。信利は寛文2年(1662年)より領内総検地を断行し、表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打出し幕府に報告しました(沼田藩改易後、幕府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかった)。また、沼田城を修築して5層の大天守閣を立て、江戸の藩邸を松代藩邸に引けをとらぬ豪奢な造りに改装するなどしたため、領民は重税を強いられ多数の餓死者を出すほど窮乏したのだそうです。

延宝8(1680年)年、信利は両国橋改修の用材の調達を、材木商大和屋から請負いましたが、台風による河川の氾濫で用材は流出し、翌天和元年(1681年)10月の納入期日にも間に合いませんでした。さらに同年、領民の杉木茂左衛門という人が将軍に直訴をし、11月に沼田藩は幕府から治世不良、納期遅滞の責めを問われ、改易された…そうです。

その杉木茂左衛門にまつわる史跡を訪問しました。刑場跡にも石碑がありますが、すぐ近く、徒歩で行けるところに茂左衛門地蔵尊というものがありました。こちらにも茂左衛門の石碑がありました。先ほどのよりも立派です。