砥石城の登山口等を教えていただいたお礼を兼ねて陽泰寺に寄らせていただきましたが、なんと飲み物やお土産のお菓子まで御馳走になってしまいました。パンフレットを拝見させていただいたところ、なんと、曹洞宗「陽泰寺」は白鳳十一年(683)の創立で、白山を開いた高僧泰澄がこの地を訪れ、庵を結んだことに始まるのだそうです。しかも、泰澄の弟子の清定(じょうちょう、きよさだ)が四阿山に白山比竎神を勧請したこになっています?!
さらに天平九年(737)に行基が仏殿を創建し、海野氏の祖とされる清和天皇の第4皇子貞保親王の子・善渕王(信濃守)が山号を向富山と命名し開基となり、海野氏第四代幸真(正暦四年(994)没)が海野氏菩提寺としての養泰院の中興開基となる。墓は裏山にある…
なんと、海野氏の菩提寺が東御市にある興善寺ではなく、本当はここだということですか?それとも、昔そうだった、ということですかね。
お言葉に甘えて、海野幸真公の塑像まで拝見させていただきました。裏山には代々の住職のお墓があり、どれが幸真公のお墓なのかは解らないそうです。
また、総門の扁額(へんがく)にあった「砥石法窟」という文字の意味は、砥石山麓に開かれた仏法の修業道場という意味だそうです。
海野氏の菩提寺だということにも驚きましたが、砥石城といえば村上義清。養泰寺の付近は「内小屋」と名が付き、城主居館や家臣団の屋敷があったはずですが、そこに隣接して海野氏の菩提寺がある、というのは不自然な気がします。村上氏の関わりが絶対に深いはずですが歴史から消されてしまったとか?泰澄や行基がここに来た件はさすがに伝説だと思いますが…。慶長六年(1601年)には真田信之が五貫文寄進しているそうです。
曹洞宗望富山陽泰寺、あなどれませんね…