海野塚は長野原町羽尾城主・羽尾幸全入道の弟、海野能登守輝幸とその息子幸貞親子の墓です。数年前、羽尾城址で兄弟の海野長門守幸光の墓を訪問した時からここにはぜひ来たいと思っていました。所在地がよく解らなかった理由が解りました。ここには駐車場がないのです。
ちょっと長い話を。甲斐国を統一した甲斐守護武田信虎(信玄の父)と、村上義清や諏訪頼重などの連合軍が小県郡へ侵攻し、小県を領する海野棟綱ら滋野一族(海野氏、禰津氏、望月氏、真田氏など)を駆逐します。この戦いで海野棟綱嫡男の幸義は戦死します。ただし、真田幸隆は海野棟綱の子、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子であるとして、海野家の跡継ぎの立場となります。
真田幸隆は、鳥居峠を越えて、関東管領・ 上杉憲政に仕える同族の羽尾城主・羽尾幸全入道を頼って落ち延びたそうです(長野原町誌)。幸全の庇護を受けた後、長野業政の箕輪城に預けられましたが、長野業政の計らいもあり、箕輪場を出て武田晴信に仕えることになります。しかし幸隆はその後、武田軍の西上州侵攻の先鋒を命ぜられ、大恩ある羽尾幸全、長野業政らと闘うことになります…。羽尾幸全入道はその後、越後に逃れたとか?
そして羽尾入道の弟たち、海野長門守幸光と海野能登守輝幸もまた吾妻太郎斎藤氏を裏切り、寝返って真田幸隆に仕えることになりました。そして幸光は岩櫃城代に、輝幸は沼田城二の丸に置かれていました。しかし海野兄弟は自信家で傲慢なタイプで他の真田家臣達からは疎まれていたそうで、幸隆息子の真田昌幸氏にとっても面倒くさい古株と思われていたに違いありません。特に輝幸は武術の達人といわれていました。
最後はこの兄弟をねたむ者から「海野は北条と通ずる」との昌幸への讒言により、海野兄弟は討伐されます。輝幸は「主家に二心無き証をたてん」と迦葉山を目指す途中、真田勢に追いつかれます。中には真田一の剣豪であり沼田一の豪者・木内八右衛門もいましたがこれを一太刀で討つと、嫡男幸貞と「無益の殺生はこれまで」と刺し違えて自刃しました。この時輝幸は72歳。本当に武芸の達人だったのですね。
しかし、生き長らえるために主君をコロコロ変えるのは戦国時代の常套手段。真田幸隆・昌幸こそ表裏比興の者です。彼らが信繁(幸村)の様に一本気で斉藤氏に最後まで仕えていたなら岩櫃城か嶽山合戦で討たれ、長野原町雲林寺は開山されなかったし、長野原町大乗院も、私の大切な知人、浦野安孫さんもこの世にいなかったに違いありません。
海野塚の墓石に手をかけたら、思わず涙が出ました。海野能登守輝幸親子の無念が伝わってきたかのようでした。
「辛かったですね、苦しかったですね、でももういいですよ、お疲れ様でした。」と心の中で思い送って差し上げました。何の力もありませんが、気持ちだけ。