八ッ場ダム水没地区 川原畑 西宮遺跡

八ッ場ダム建設に伴い水没する地区、川原畑の西宮遺跡で、昔の石垣が出ている、というので見に行ってきました。

このあたりは標高 550 m 未満です。川床は 490 m 位でしょうか。天明の鎌原土石なだれにより発生した吾妻川泥流は、川床から 70 – 80 m もの高さになって流れた、ということですから、場所によってはこの位、60 m の高さにもなっても不思議ではありません。

下から二番目、長細い石が斜めに積まれている石垣は、泥流が被さっていなかったそうです。ということは、天明3年(1783年)以降に積まれたものである、と考えられるそうなのです。なるほど、岩櫃城址の潜龍院の石積みと似ているような気もしますね。

泥流の中にあった石積みは、そんなに綺麗には積まれていません。泥流で崩れたのかもしれませんが…。昭和10年(1935)には山津波もあったそうで、そういうことも考えながら発掘しているのだそうです。

浅間山大噴火時、川原畑では、21 軒の家が流されて4人が死んだそうです。ということは、逃げるチャンスは十分にあったのではないか、ということと、一度は逃げたのに忘れ物を取りに行って濁流にのまれた、逆流してきた流れにのまれた、などの状況が考えられるそうです。特記すべきことは、「天明泥流」は、前方の構造物すべてを破壊しつくしながら突き進むだけではなく、川岸あたりでは下にある畑や構造物を包み込むようにして覆い被さっているということです。鎌原熱雲発生直後に鎌原村を襲った、地面の下数十メートルを掘り起こし巻き込みながら突き進む破壊的な土石なだれ…というイメージだけだと、天明泥流の姿は掴めません。こいらの畑の耕作の間が狭いのは、横に伸びる必要がない作物を育てていたからです。麻は、長野原町でも十分に育ちました。

どの高さまで泥流が被さっていたのか、もう一度よく聞く必要がありそうです。後日、もう一度伺って話を聞こうと思います。