吾妻川の琴橋(長野原町)

戦国時代、西吾妻最大の合戦と言われる「長野原合戦」で、真田方長野原城の大将・常田新六郎隆永氏は「琴橋須川の橋を落し寄手を防」いだそうです。(※最終的には渡って来られましたが。)

白砂川に架かるのが須川橋、吾妻川にかかるのが琴橋です。昔から須川橋は暮坂へ、琴橋は須賀尾へ通じる交通の要地でした。少し下流には左岸から右岸に安易に渡れるところがあったので、王城山に陣取った敵の進軍を食い止めるためには白砂川の橋だけではなく、吾妻川の橋も落とす必要がありました。


琴橋の椀貸伝説

橋の西岸の大きな平の岩のあたりは、底知れぬ深みとなり、竜宮に通じているといわれていました。村人たちは、お振る舞いで膳腕が足りなくなって困ったときに「お膳とお椀を貸して下さい」と紙に書いて川へ流すと、次の日、お願いした分の膳腕が淵にある平らな岩の上に並んでいたといいます。ところが、ある日、不心得者がいて、借りたお椀をひとつ返しませんでした。それからはいくら頼んでも膳椀を貸してくれなかったそうです。そして、不心得者の家は龍神の罰を受け、焼けてしまったそうです。なお、膳椀がのせられていた平らな岩は、護岸工事のため取り除かれ、現在は見ることができません。