旧国鉄長野原線太子(おおし)駅跡(中之条町)

群馬鉄山の創立と太子線の開通

 昔から吾妻川は、河原の石までも赤く染めて流れていました。この流れの源が、鉄山です。群馬鉄山は、ここ太子駅から北北西、直線距離にして約8km、中之条町大字入山字元山地区(現在のチャツボミゴケ公園)に位置し、ここに国内随一の褐鉄鉱鉱床がありました。

 太平洋戦争末期、戦局の悪化に伴う輸入鉄鉱石の減少から、国内鉄鉱石増産の要請があり、昭和18年6月、この地方の鉱業権を取得した日本鋼管株式会社が、国の命令を受け鉱山開発を行いました。この鉄鉱石を京浜地域に輸送するため、突貫工事により敷設されたのが長野原線(渋川〜長野原間の 42 km )と、日本鋼管鉱業株式会社専用側線の通称「太子線」(長野原〜太子間の 5.8 km )です。

 開通は昭和 20 年1月2日、大雪の中、太子駅より鉄鉱石が初出荷されましたが、すでに戦況は悪化し、米軍の空襲により交通機関はむ寸断され、思うような出荷が出来ないうちに終戦を迎えました。なお群馬鉄山から太子駅までは、索道(空中ケーブル)により鉄鉱石が運搬されていました。

 終戦後、群馬鉄山は事業を再開し、鉄鉱石は日本の復興に役立てられました。太子駅は引き続き貨物専門の駅でしたが、昭和29年6月に当時の六合村村民の願いが叶って客車乗り入れが実現し、通勤、通学、観光等の足として利用されるようになりました。

 ところが昭和40年に群馬鉄山が閉山され、昭和42年、長野原線は電化されましたが太子線は電化されず、唯一の駅である太子駅は無人駅に指定されました。

 太子線の利用客は日に日に減少して、全国でも指折りの赤字路線となったため、「先祖伝来の田畑を提供し、勤労奉仕の血と汗で築いた太子線を残してほしい」という地元住民の願いもむなしく、昭和45年11月1日営業休止となり、昭和46年5月1日、ついに営業廃止となりました。

 今でも、鉄鉱石を電車に積み込むための施設(ホッパーの基部)、ホームの石積み、線路止めなどが、戦時中から戦後にかけての歴史の証人のように残されています。