大戸関所跡(東吾妻町)

大戸関所跡(現地看板より)


大戸関所は信州街道の要点をおさえる重要な関所で、近世初頭の寛永8年(1632年=1631年では?)に設置された。

 信州街道は草津温泉を始めとする湯治客、善光寺参り、北信濃の三侯の廻米や武家商人の荷物、各地の産物の輸送路として、中山道を凌ぐ程の活気を呈したともいわれ、江戸と信濃を結ぶ最短距離として重要な街道であった。別名信州道、草津道、善光寺道、大戸廻りとも呼ばれた。

 大戸関所は元和9年5月(1623年)将軍(徳川)秀忠上洛の時に、要害の此の地を守護したのが始まりといわれる。其の後、寛永7年に幕府目付によって、関所見立の巡検があり、翌8年に正式に関所が設けられた。 中山道の脇往還で、碓氷関所の裏固めの意味を持っている。 以後230余年の間、幕府代官の管理の下に運営され、明治元年9月に廃止された。関所は通行手形によって往来の旅人を厳重に取締り、関所破り(関所を避けて山越しなどをした者)は重罪として処刑された記録がある。通行の門限は明六つから暮六つ(午前6時から午後6時)までと定められていた。また要害地域を守る関所付の村として、大戸、荻生、本宿の3ヶ村は関所番人をを出し、警備に当たったり、関所破りを監視するなどの負担を義務づけられ、近隣の11ヵ村は関所普請村に充てられていた。

 嘉永3年(1850年)12月に関所破りの罪を受け、侠客国定忠治はこの地で処刑された。映画や講談、浪曲でも知られる處である。

 吾妻町観光協会・史跡保存会

寛永8年(1631)に設置され、将軍徳川秀忠上洛の際にこの地を守護した…つまり、中山道を通るために、脇海道・信州街道の大戸に関所を設けた、ということです。嬬恋村の大笹関所は寛文2年(1662)に真田伊賀守が設置したことになっていますから、将軍秀忠上洛の際には無対策であったようです。中山道と信州街道の位置関係から見て、大笹も決して遠くはないと思いますが、吾妻峡が要害になるので大丈夫、とみられていたのでしょうか。また、ここでの上洛の意味が解りません。将軍はどこに行こうとしていたのでしょうか。