現地には、以下のような記述のある看板がありました。

仙人窟の歴史(設置看板より)

この岩窟は南面に白い観世音及び十八羅漢の石像があり、先住民族の穴居の跡ともいわれ、北の隅に清水が湧出し人二人分の飲料に足る程度という。伝説に日本武尊の東国征討の帰途に宿泊せし處なりともいわれる。かって中世近世において吾妻三十三番観世音札所の中に名を連ね、信仰のあった場所で中世の時代、吾妻三十三番順礼歌に

― 終夜(よもすがら) 岩屋に響く法の声 近いも深き谷川の音 ―

と唄われていた。

吾妻町観光協会 吾妻町史蹟保存会

向かい合う手古丸城跡は戦国の世、天正八年(1580)城主大戸真楽斎は遠州高天神に於いて戦死、天正十年(1582)手古丸城も北条氏の為に落城している。窟中に古墳が三つあるのは、城主大戸真楽斎の石碑だと伝えられている。天正十四年(1586)真田信幸は五百騎を率い、北条網可等の二千騎と戦う。信幸は軍を仙人窟に伏せ、大返して大勝し手古丸城を奪還した。北条勢は大運寺前を西へ敗走したという。

徳川時代の国学者、清水浜臣著(1847)の上信日記によれば、寛永年中に松厳という坊さんはここに寺を創造し大丹寺と名付けた。延宝年間(1675)に潮音禅師は弟子の心月草菴を住ませ、観音及び羅漢十八躯を建設したとのこと。当時三百段を数えた?も水害により百八十段にすぎない。亦獅子窟は仙人岩屋の山頂にあって径が険しく土地の人といえど所在を知らない者があるという。真下を流れる温川の瀬音が仙人窟の洞窟に?して往時の信仰の盛んなりし頃を物語っているかのようである。

洞窟 幅八間(約14米) 深さ十四間三尺(約二十二米) 高さ一丈五尺(約四、五米)

後日、詳しい方と同行訪問しました。すると、前が川で後ろが絶壁のこの場所に陣取るのは、現実的には自殺行為とのこと。確かにその通りです。信之軍は仙人窟の中に陣取ったのではなく、仙人窟付近に陣取った、ということなのでありましょう。詳しい人と山城を回るといろんなお話が聞けてためになりますね。