川戸神社の由来(旧名:首宮大明神)

正応年中(1288〜1292年)に生まれた吾妻太郎行盛は、南北朝時代、北朝の尊氏に属し、隣接する碓氷郡里見氏は後醍醐天皇の南朝に属していました(南朝方の将、新田義貞の母の実家は里見氏)。

貞和5年(1349年)、岩櫃城吾妻太郎行盛は突如として碓氷の豪族里見氏の攻撃を受けます。里見軍は善導寺住職に水道を案内させ遂にこれを断ち、さしもの岩櫃城も飲み水に窮し落城しました。包囲の敵を切りまくり霧沢づたいに難所を抜けて吾妻川の立石と呼ばれる大岩の上で休息しました。秋間、荒尾ほか十数旗しかお供の無い状態でした。「もはやこれまで!」腹を切ろうとすると家老秋間他も殉死しようとしました。吾妻太郎行盛は「お前たちまで死んで何とする。我が子・千王丸は榛名山中で修行中じゃ。皆で千王丸をもり立てて里見を滅ぼし仇を取ってくれ。」とさとし、足を踏ん張り腹一文字にかっ切り自らの首を刀で落とすと対岸の里見の本陣に投げつけました。首は川戸の枯れ木に食らいつき夜な夜な青白く光り続けました。農民達は恐れおののき、傍らに小さな祠を建ててその霊を慰めました。これが川戸神社首の宮(かみのみや)の始まりなのだそうです。

祭神一覧には、一番最初に迩迩藝命(ににぎのみこと)、その次に吾妻太郎行盛の名前があり、その後に大物主神、大山祇命、天照大御神などのおきまりの神々の名前が並んでいました。

東吾妻町原町駅前の旧国道側の商店街が賑やかだった頃は、初詣に川戸神社に初詣に行ったら行列で凄かった、それこそ何キロも人が並んでいた…と聞きます。現在は行列程の事は無く、数組が待っていただけでしたが、入口に杉の葉で正月飾りをしていたことと、お持ち帰り自由の福笹があり、地域に根付いている神社であることが伺われました。

最後の写真4枚は、川戸神社のお蒔き桜です。東吾妻町の「お蒔き桜」と呼ばれるサクラ巨木は旧岩島第二小学校、川戸神社、そして三島細貝の子育て地蔵の、少なくとも3箇所現存しています。

これもやはりエドヒガンザクラ。本当に東吾妻町にはエドヒガンザクラの古木が多いですね。ソメイヨシノは江戸時代末期から明治の始め(1872年〜)に、エドヒガン系の桜とオオシマザクラの交配で生まれたらしいですから、歴史がある社寺の巨木・古木はソメイヨシノではないのは当たり前のことではあります。