王城山神社(長野原町林)

王城山神社です。そもそも王城山は今から約 2000 年前、日本武尊が東征の帰りに御駐屯なされた旧跡で、山頂に祠を建ててこれを祀り(奥宮)、里宮として王城山神社を建てて祀ったのが縁起です。

王城山神社の境内には、どういう訳か東吾妻町岩島矢倉にある、鳥頭宮の拝殿(別当?)があります。建て替えて新しくなっていますが、これは吾妻太郎藤原行盛(〜1349年)(岩櫃城主)と関係があります。藤原行盛氏は1321年、矢倉鳥頭神社の社殿を改修したりもしています。

群馬県の祭り・行事−群馬県祭り・行事調査報告書−(群馬県教育委員会発行)の王城山略縁記


藤原行盛は大変に信仰が厚い人だったらしく、ある時、難戦の際に矢除けのお守りで命を救われたことがあり、領内の勘場木場(大津のあたり)に日本第一大軍神である信州諏訪大明神を勧請したそうです。またその後、真田一徳斉(幸隆)が別当(下社、今の王城山神社でのことか?)において、37日男子誕生の護摩供を修行せし処、男児出生したとも記されています(真田信綱のことか?!)。

鳥頭宮の隣には、春(5月5日)に山の神様を里の神様・田の神様に招きおろし、秋に山にお帰りになるまでお過ごしいただく御仮屋が設置されています。

王城山略縁起 (群馬県の祭り・行事 ―群馬県祭り・行事調査報告書―)より


抑王城山神社の由来ハ日本第一軍神と崇め奉る信州諏訪大明神の同躰なり、往昔吾妻太郎藤原行盛常に信仰深かりし処、或時難戦の砌御守ハ矢疵に損し候といへとも一身に少の疵もあらされハ、是偏に御守の威徳なりと弥々信心肝に命し、領内勘波木村に勧請し信仰年久し、其後真田一徳斎初老にして子なく、此御神に祈誓して別当において三七日男子誕生の護摩供を修行せし処、不思議に男子出生ありけれハ信仰益深くして天正十三年に今の御山江社を移され、御祈祷料も御寄附せられし処なり。王城山虫切鎌と云ハ、吾妻太郎落城の後、藤原家重宝の鎌を則ち此御山に奉納しけれハ、名将の持れし鎌なるゆへに何のころより一ヶ月二ヶ月或一年御借請申、信仰する時は小児の虫、蚕の虫、鼠、五穀の虫其他虫の難を除る事秋風の雲を吹沸か如し、又右の鎌を返納する時ハ二丁にして納るなり、これによりて鎌も数百丁にふえて、利益も又日々に盛なり。

七月廿七日廣庭において団子相撲という例祭あり、団子相撲と云ハ米の粉にて人形を作り、参詣の砌小児に投させ、斯の如く勇力に成長する処を守らせ、いへいへ心願してして吉端をねがう祭礼なり、何の地よりか男子相撲と唱へ十才以下の子どもに相撲をとらす。是も寿命長久の祭礼なり、斯の如く利益莫大なる御神なれハ、常に信仰する輩は子孫永盛・剱難矢除守護疑なしと云

  上毛吾妻郡林村 別當 大乗院