ここは侠客・国定忠治が磔の刑にされた場所=国定忠治処刑場跡です。忠治は博打うちとはいえ、天保の大飢饉では農民の救済に励んだりと、ある種の「英雄」でした。その「英雄」の最後を見とどけたいと思ったのか、周囲には1500人もの農民が集まりました。はるか遠方からやってきた者もいたようです。四方を竹矢来で囲んだ処刑場には、忠治奪還を恐れた役人300人が槍や刀を手にして警戒にあたりました。目隠しを拒否した中風病みの忠治は、十五槍刺されて絶命。その後、二夜三日間晒し首とされました。享年41歳。土地の人々は忠治の冥福を弔って墓碑と地蔵尊を建立したそうです。

また、十一代加部安左衛門は国定忠治とも仲が良く、忠治が処刑される時、最期に望んだのが、加部安が造った銘酒「牡丹」でした。

この場所にあるエドヒガンザクラの巨木を「忠治地蔵の桜」といいます。ここの桜もよく見るとかなり太いですが、旧大戸小学校よりは一回り細いです。