延命寺石標の欠片を利用した 道しるべ

(看板より)延命寺石標の欠片を利用した 道しるべ


 「右すかを 左ぬまた ミち」とあり、右を行くと苅宿を経て須賀尾、大戸、高崎へ、左を行くと、袋倉、羽根尾、原町、中之条、沼田への街道を教えています。

 裏面を見ると、さかさの「別」の字が刻まれていて、「別当浅間山延命寺」の、石標の一部とわかります。

 延命寺の石標は、天明3年の浅間押しの際、土石なだれによって押し流されました。

 明治43年に吾妻川下流約25km先の矢倉の河原で発見されました。そこの鳥頭神社に祀られていたものを、昭和18年に鎌原に戻され現在の観音堂の境内に保存されています。この道標の建立年代や経緯については、不明です。

鎌原区

江戸時代の1700年代後半には野口円心という僧侶が全国を遍歴し、托鉢で浄財を募り、道陸神峠−久森峠−釣鐘−鬼岩の開削工事に喜捨したと聞いています。恐らく、この道しるべは円心が道陸神峠道を整備した後、吾妻渓谷が死を覚悟して通るものではなくなってから設置された、と私は見ています。矢倉鳥頭神社に引き上げ祀ったのも、恐らくは円心なのでしょう。縁とはそういうものです。