長福寺の五輪塔 (吾妻太郎行盛の墓碑) 東吾妻町

長福寺の五輪塔


県道渋川・吾妻線の南側丘陵地の長福寺境内にこの五輪塔はある。
境内にある観音堂の西側に岩櫃城主吾妻太郎行盛の墓碑と伝えられる五輪塔である。
年号には、貞和5年(1349)が刻まれ、南北朝の争乱が伝えられる時代に、南朝方の里見氏と北朝方の吾妻氏と戦った年といわれている。

吾妻太郎行盛の由来


 吾妻地方の領主を吾妻太郎と呼んでいる。吾妻氏について、「吾妻鏡」に吾妻八郎、同太郎、同四郎、助光などが鎌倉幕府御家人として活躍しているが鎌倉中期以降は記事もなく明らかでない。

 南北朝時代に活躍する吾妻太郎行盛は飽間(安中市秋間)を本拠とする飽間斎藤氏の一族と推定される。斎藤氏一族は新田義貞の鎌倉攻めに参加しており吾妻太郎行盛もこれに従った。

 建武新政後、南北朝に分裂した折、斎藤氏一族は上杉家に属して北朝方となり貞和五(1349)年五月二五日、南朝新田方の里見兵庫頭頼氏に攻められ原町立石の地で自刃して果てた。遺子千王丸(のちの太郎憲行)は母方の伯父斎藤梢基の庇護と上野国守護上杉憲顕の助勢を得て延文三(1358)年吾妻を奪回し、斎藤越前守太郎憲行を名乗った。のち二代行禅(ゆきすけ)、三代行弘、四代行基、五代行連と続き、六代基国の時、即ち永禄八(1565)年武田の家臣、真田幸隆に攻められ滅亡した。

 この五輪塔は中央が吾妻太郎行盛、法名は長福院殿前吾妻太郎大守行盛大居士、右が家老、左が行盛夫人と伝えられる。五輪塔の銘文は後世の追刻であるが、塔は南北朝時代の様式を残す立派なものである。なお、境内の北向観音堂は元禄六(1693)年長福院移転中興の折、当時開基吾妻太郎行盛とその従者一統の霊を永く安んじる為造営された。

吾妻三十三番観音第六番札所となっており、御詠歌は

「松かげの岩井の水は深緑 有為のなみ風たつは寺沢」

  平成十三年四月吉日 長福寺