矢倉鳥頭神社(東吾妻町)

鳥頭神社(矢倉)


 由緒:創建年月不詳、伝承によると吾妻七社の一社で建久年中(1190)の建立と伝えられている。古末武将、郷民の信仰が厚く、元享年間(1321)岩櫃城主吾妻太郎行盛が社殿を改修したという。

 延文3年(1351)京都安居院で編集された「神道集」によると、父が加若和利 母・子持御前の御子 とっき東宮を祭った神と記されている。叔父藤原成次は元上野国目代で、この地に住居し中世は吾妻荘西条岩下村と称した。

 戦国末期は岩櫃城主斉藤氏の庇護を受け、永禄6年(1578)10月斉藤氏滅亡後、同9年海野幸光同輝幸は信玄の吾妻領の郡代となり、天正6年(1578)海野長門の守幸光は武田勝頼に忠誠を顕すため、鰐口を奉納したが、その後盗難により現存しない。天正10年(1582)真田昌幸より八貫七百文の寄進を受け社殿を修復、同18年8月真田信幸沼田入部に際し三貫五百文の寄進を受けた。沼田真氏改易の後、貞享4年(1683)検地には境内一反五畝余、森一反とあり、元禄7年(1694)11月京都卜部兼連より正一位鳥頭大明神の宣旨を賜った。宝暦週11年(1761)本社建替着工、明和元年(1764)9月完成した。なお宝暦13年(1763)まで正一位正一位鳥頭大明神と称した。

 明治10年7月相殿二座を合祀、同40年8月境内末社等を合祀した

由緒書の看板によると鳥頭神社は吾妻で生まれた神様のようです。また、加若和利(和利宮)とは現在の吾妻神社であり、嵩山が御神体です。そこをぐぐって見ると、もう少し詳しい伝説の記述がありました。

 和利宮は、和利嶽(わりのたけ)と呼ばれた嵩山(たけやま)と関連深い社です。南北朝時代に成立した『神道集』の中に「上野国子持山之事」という一節があり、子持山大明神を中心に吾妻の神々の縁起が記されています。

 伊勢国阿野津の長者阿野保明は、伊勢神宮子守明神に参詣して得た娘に、子持御前と名付けました。成人して加若次郎和利(かわかのじろうかずさと)と結婚し、二人で伊勢神宮にお礼参りに行きました。これをかいま見た伊勢国司は横恋慕し、夫の加若和利を謀反人として下野国へ流刑にしました。子持御前は夫を救うため東国に下り、熱田・諏訪大明神の助力を得て救出、和利の伯父(おじ):藤原成次のいる上野国山代荘(吾妻郡)で再会しました。

 このあと、諏訪大明神から神道の法を授けられて、関係者は神としてまつられ、子持山(子持御前)・嵩山(夫の和利)・鳥頭宮(若君)・山代明神(伯父:藤原成次)・中山の半手本明神(供の女房)・青山の駒形明神(若君を乗せてきた馬)・市城の白専馬明神(馬を引く供の人)となりました。これらの神々は、『吾妻七社明神』と呼ばれています。