王城山神社奥宮の石祠(長野原町)

ここでは、古代の日本武尊伝説を抜きにして、奥宮石祠に彫られている「諏訪大明神 王城山大明神」の文字から中世以降の王城山神社勧請と奥宮の存在意義を考えてみます。

王城山神社について考察すると、この奥宮は、やはり真田幸隆が王城山古城を攻め落としてから、勘場木場にあった上社をここに持ってきたと考えるべきだそうです。

王城山古城は、加沢記等の記述によれば、1563年(永禄六年)、長野原合戦以前は岩下城主、斉藤方(上杉方)の要害だったと思われますが、それ以降は真田方の要害となりました。浦野さんの見解では真田幸隆が武運長久を願い、古城の背後の守護神とし、勘場木場にあった諏訪神社の上社を勧請し、奥宮としたのではないか、とのことです。背後に諏訪様をつけて吾妻渓谷の先、東吾妻に侵攻して行ったのではないかと。

武田家は軍神である諏訪明神=建御名方命(たけみなかたのみこと)への信仰心が厚く、侵攻した地域の神社はみんな諏訪神社にしていく傾向があります。王城山神社を諏訪神社にしたのは武田氏が真田氏に命じたことなのかもしれません。

王城山略縁起 (群馬県の祭り・行事 ―群馬県祭り・行事調査報告書―)より

王城山神社の由来ハ日本第一軍神と崇め奉る信州諏訪大明神の同躰なり、往昔吾妻太郎藤原行盛常に信仰深かりし処、或時難戦の砌御守ハ矢疵に損し候といへとも一身に少の疵もあらされハ、是偏に御守の威徳なりと弥々信心肝に命し、領内勘波木村に勧請し信仰年久し、其後真田一徳斎初老にして子なく、此御神に祈誓して別当において三七日男子誕生の護摩供を修行せし処、不思議に男子出生ありけれハ信仰益深くして天正十三年に今の御山江社を移され、御祈祷料も御寄附せられし処なり。

  上毛吾妻郡林村 別當 大乗院